三村昌也の季節 |
三村昌也(LIPNITZ)君の『季節』という曲のPVが、彼のブログでアップされました。これってDVD『たからの山』に収録されていた歌なのですが、フルバージョンのままでアップになりました。というわけで、ぴよどら久しぶりのレビューです。いつものように長いですけど。
映像は彼の小さい頃の写真や、母校での撮影、音楽教室での演奏など、ちょっと『過ぎ去った季節への感傷』といった感じのテイストでまとめられています。彼の世代は久しぶりに小学校の母校に行ったとしても、当時のままに残っていることの方が多いのでしょうね。私の時代は在校時は木造校舎になりますから、行っても校舎はなかったりします。
彼のPVの撮影に学校側が許可を出したのはとてもいい話です。卒業生であってもあまり交渉はうまくいかないものです。今回は『たからの山』のエンディング・テーマとしての収録なので、そういったことも許可が下りた背景でしょうか。卒業生の創作活動に母校が応援してくれているというなら、とてもステキなことです。
曲の方ですが『季節』は以前ライブのアコースティックバージョンで発表されていた曲なのですが、今回はストリングスが加わった新バージョン。
ファンにとっては「いかにも三村昌也っぽい曲」と感じられる曲と仕上がりです。昨年の彼は結構アグレッシブに様々なタイプの曲を作っていて、三村&今村コンビでの、何やら和テイストの神話風な展開の曲を演奏したり、スピード感が気持ちいい『ムラサキの種』などのロックな曲も発表していました。その事から考えると『季節』はとても彼自身の王道とも呼べる世界観とメロディラインを持った曲です。
PVの映像がノスタルジックな思いでを振り返る系の曲に感じられますけど、実はかなり大人の歌なんです。といっても大人像は一般的なものとかなりちがいますけど。
若いときは誰でも感性が研ぎすまされて、早熟というか周りと一周も二周も早く成熟した感じ方や考え方をするようになります。ただ身体と周囲の扱い方は子供や若者のままなんですけど。
そういった先に進んでしまった孤独や哀しさが、いわゆる『青春の叙情』に結びついていくものだと思うのですが、それを抱えながら生きていくと、気づけば身体と周囲の扱いが大人になっている訳です。
取り残されたのは『自分の早熟な感性』だけ、という新しい孤独が生まれます。
それは「感性だけが成長していないのではないか?もしかして古くなった?」という怖れだったりします。
ものを創る人間の多くは、それを意識しながら見ない振りをしたり、打ち消す様に若さを強調したもの作りをします。
ただ、まれにそういう新しい孤独をテーマにするクリエイターやミュージシャンもいますが、直接的に「過ぎた過去の自分」を詩としてしまったりします。それはストレートに伝わるし、意外と日本の伝統芸でもあったりしますのでw批判すべきことではないと思います。
でも三村昌也(敬称を省いてしまうけど)は、その新しい孤独が生まれたことに対する戸惑いを「ある重要な季節」として表現する希有なタイプのミュージシャンというかクリエイターなのです。新しい初めて経験する季節はそれまでいくつも過ごして来た季節とは違い、遠くでは雨が降りながら頭上は晴天。その青さは宇宙まで見えそうで怖いくらいで、また強風というより暴風に近い風が吹いているのに、自分以外は何事もなく静かに移り変わっていく。自分だけがスローモーションの世界を見ていて、焦った様に走っているのに数時間たっても数歩も動いていない。それに対して恐怖を感じるけど「優しくなれよ」と日差しは語りかける。
そういう混乱が新しい季節であったりするわけですが、三村昌也はその季節をやっぱり印象派の絵画のように歌ってしまうわけです。叙情的なのに謎が多い彼の曲をいつも不思議に眺めていましたが『季節』でその謎が解けたようにも思います。結論=いまの言葉でいうとオチに決して向かわない彼の多くの曲はまた時間軸を持っていないという特徴があります。
永遠に「新しい季節」への質問を繰り返し、答えらしきものを見いだしかけては捨てていく。その手法は彼だけのもの。答えを出さずに回避していくモラトリアムとは違います。
新しい季節を迎えて答えを出せずにいる、そのための停滞という季節の中で正直に生きて行く姿は、ある意味現代のある青春像で、新しき古典にもなる可能性を秘めたものなのだと私は思うのです。
未成熟と未完成に踏みとどまって、新しい季節風で高波が生まれている海に錨を下し「この世界を、この季節を描ききってやろう」という彼の現在の姿勢は異色です。
「言い切らなければ前に進めない」という歌がメジャーとしての主流ですから。もちろん彼はプロですから曲が未成熟であったり未完成であったりすることは許しません。そこでの葛藤もまた彼の季節の仕事であったりします。
PVが三村昌也の母校で撮影されたのは、振り返る季節にはぴったりの場所でした。自分の成長が早すぎる感受性をずっと感じていた場所であった訳ですから。あの頃の自分を確かめに行く場所としては最適ですから。しかしノスタルジックな場所であってもスタートラインとしての意味もありますから、単なる追憶のために訪れたということではないと思いますよ。その辺りをじっと探りながら見ていくとPVは別の顔を見せてくれます。
LIPNITZは結成15周年だそうです。ずっといままで聴いて来てくれたファンは、三村昌也の澄んだヴォーカルの中に、自分に訪れた新しい季節の言葉にならない戸惑いを、感じ取っているのかもしれません。
戸惑いは甘美な感情です。少なくとも三村昌也の世界では。その甘美さが彼の創る曲の姿をラブソングに変換させていることも、ひと言付け加えておきます。
2011、10、20 ぴよどら