赤ずきんは森の中〜細木るみ子作品レビュー |
では評価が二転三転しているかというとそんな事はなくて、あの京橋のギャラリーへの階段を上りきって作品が視野に入った時から変わってはいないのです。それなのにナゼ?理由はひとつです。細木作品の与える印象がとても複雑な方程式のようなものだったからです。謎ではありません。謎を解こうとしているカタチとでも言ったらいいのかも。というわけで格闘をしていた訳なんですが。

まず私はFBを通してしか細木さんというアーティストを知りません。お会いしたことがないのです。FBやブログ等の文章を通してお人柄を探ることは出来ますが、対面しての印象と言葉から掴む印象とは違うことも多いので、決めつけをしないように、いつも注意深く読んでいます。ですから多少過去作品の情報がインプットされてはいますが、初見に近い状態だったと言っていいでしょう。町を歩いていてギャラリーのドア越しにちょっと気になる作品が見えたので、ドアを開けて作品と出会った的な。

拝見させて戴いた作品は4点です。3点は『客観素描』シリーズという鉛筆による平面作品です。もう1点は『刺繍詩』というシリーズのもの。
展示という名の教室、もしくは無限回転木馬

interactive 2015 (ギャラリー檜BC 東京)撮影/細木るみ子
作品そのもの印象を書く前に『客観素描』3点の展示の仕方について少し書いておきます。比較的大きめな作品の間に、同じマチュエールを持つ植物=フキの葉のような小さな作品が飾られていました。この展示の並びは、心優しいガイドなのか、それともトラップなのかは分りませんが、細木さんの作品世界を理解するために役立っていたように感じます。

interactive 2015 (ギャラリー檜BC 東京)撮影/細木るみ子
具象のように見える作品を、一見抽象に見える作品が挟んでいるのです。しかも同じ画材が使われていますし、見ている方は同じシリーズととってしまいます。真ん中の植物を描いた作品を具象と捉えると、大きな2作品も具象の延長上のものが描かれていると読んでしまいます。逆に2作品を抽象と読んだ場合、真ん中の作品を抽象と読み解かなくてはいけなくなります。「えっ?どう見ても植物だから具象でしょう!」というのが素直な印象なのでしょうが、植物の絵を抽象とすることでパンと世界が変わる面白さがあるのです。現代美術って極めて多様性があるものですし、はっきり言って抽象と具象の境界なんてないに等しいのですが、ファインアート界はどちらかというとその境界をわざと曖昧にしているようなところがあるのです。しかし現代アートの本質が装飾じゃなくて「問いかけ」にあるとすれば、細木さんは曖昧な境界線問題にかなりダイナミックに迫っているアーティストだと思ってしまうのです。

蕗 2013 紙 鉛筆 撮影/細木るみ子
もしかしたらこの展示は大小大というバランスのための配置だったのかもしれませんし、「こういう絵も描きますよ」というプレゼンテーションのためだったのかもしれません。でも結果的に現代美術の教室のような効果を生んでしまいました(と思っています)3点を具象と読んだのなら左右の群雲のような濃淡の具体的なモデル探しが始まります。そうなると「これは何?たとえば苔類のアップだろうか?」「いや宇宙のガス星雲がモデルではないのだろうか?」と、作者の意図とはまったく別だとしても具体的な解答探しが始まるわけです。
一方3点を抽象と読んだなら、今度は意味のモデル探しが始まる訳です。「何を表現しているの?」「心象ならば不安?平穏?」などなど。つまり抽象と具象という分け方に固執する鑑賞者ほど、質問がループしていってしまうのです。
「具象は理解しやすく、抽象は理解しにくい」というような定型に対する痛烈な皮肉にもなっているので痛快なのです。

In The LIGHT(部分)2015 紙 鉛筆 撮影/細木るみ子
こういう展示の仕方が偶然であったとしても、細木さんの作品に力がなければそのような効果は生み出しません。ここまでは展示の話なのでそろそろ作品の話をしましょう。『客観素描』という作品たちは、極めて緊密で細密でありながら、どこかで茫洋とした霧のような存在でもありました。ひとつの作品では余白無く濃淡が広がり、もうひとつでは余白が強い印象を与えてくれました。余白と描きましたが、そこは何もない空白ではなく、むしろ墨色(鉛筆)という彫刻刀を使って削り出した新たな色の平原のようです。また墨色の細かい線は集合として描かれているのですが、その集合の配置が極めて理性的なのです。
簡単に言う画面上の濃淡の配置に偶然性が見いだせないのです。例えば黒い画面に星を白い点で打つとしますと、大体はランダムに点を打って自然に散らせているつもりでも規則性が現れてしまいます。これと同じで画面に適当に濃淡をランダムに描いても、似ている部分や繰り返しが現れてしまうものなのです。細木さんの作品の中にはそういう部分がまったく見えないのです。隅から隅まで偶然による同じカタチがないのに連続性はしっかりあるのです。まるで視野に入っている風景を具象としてしっかり描いているかのようなのです。景色全体としてはひとつとして同じカタチはないはずなのに、自然は細部にズームアップしていくと規則性とか相似象が現れてきます。細木さんの2つの作品はこんな感じなのです。自分のクセやリズムをコントロールする力がないと作品化は難しいのにと思いました。
冷静な饒舌というオリジナリティ
私だけの感想かもしれませんが細木さんの作品は、陰陽というか「在るはずのモノ」を隠すために描かれているようにも思えます。と同時に「在るはずのないモノ」を具現化するために描いてもいて、それが画面を見つめているうちにクルクル反転していく面白さがあります。展示の方法で書きましたけど具象とか抽象と分ける考え方を拒否するように、具象、心象、抽象などの全部を「描く、もしくは色で彫る」ことで画面に「閉じ込めた作品」のように見えるのです。私は距離を持って作品を見た時は崖のように吸い込まれる感覚を覚えましたけど、逆に近接で見た時には刺のような突き刺さる感覚を覚えました。魅了された瞬間に拒絶される。同じように拒否した時から魅了される。閉じ込めたからこそ殻になって防御する。だけど閉じ込めたものが魅力的だから魅了されるといった具合に。
たぶん私たちが見ている細木さんの作品は、細木さんの世界の皮膚なのです。もしくは眼球の水晶体の表皮です。
「精緻なモノクロ世界」と書けば、あたかも静かな静寂の世界のように伝わりますけど、細木さんの『客観素描』の作品群は極めて饒舌なのです。雄弁で多量の言葉がそこには詰まっていて、何かのきっかけでそれらをせき止めたものが一気に崩壊する気配が濃厚な世界なのです。その極めて危険な空気が一番魅力的だと思います。
投げ出された美
もうひとつ作品があります。立体作品です。毛糸でしょうか、色彩のある太めの糸状のものが渦を巻き絡みつき編み込まれながら、あたかも海月の触手のような形状の枝を伸ばしながら、ひとつの固まりを成しています。『客観素描』シリーズが細木さんの言語であり皮膚であるならば、コチラの立体作品『刺繍詩』シリーズは言語以前の肉体言語的な作品のように思えます。前者が理性でコントロールされた世界なら、こちらはもっと脳で考える前に本能が肉体を動かし、理性の衣を突き破って出てきたような力が溢れています。随分と古い言葉ですが「皮膚感覚」に対する「内臓感覚」、つまりむき出しの本能、もしくは本来の野生といった感覚でしょうか。

やわらかい森(部分) 2014 綿 毛 麻 アクリル 撮影/細木るみ子
実は男性的思考の世界では「内臓感覚」を苦手とします。嫌うというのではなく「内臓感覚」的作品を生み出すのが苦手なのです。内臓感覚というのに、その感覚を理性でコントロールしようとしてしまうからです。グロテスクな造形をあえて目指したとしても、どこかでその造形に美を組み込もうとしてしまいます。細木さんの立体作品は「美」をコントロールするというよりも、コントロールされる以前の原初的な美を「さあ美しいぞ!」とポンと広げてみせた感じなのです。その美に躊躇する鑑賞者。「美を前にたじろぐ」時間と空間をつくり出す作品なのです。ですからモノクロの平面作品とは違い、コチラは饒舌のように見えて、そうではない作品とも言えます。客観素描の方のように陰陽を反転させ続けて、鑑賞者が「理解」を「言葉」で構築することを放棄するようにしむけられた作品とするならば、立体作品は「投げ出された美」を「そのまま受容しなけらばならない」作品だと言えます。ちなみに断っておきますがこれは性差の話ではありません。「女性だからそう出来る」と言っているのはありません。女性性男性性という感覚のお話です。
話したくてたまらない!〜駆け出す作品たち
「私の皮膚を見たくらいで私の何が分るのよ」と言われそうな作品の後に、「さあこれが私の全部よ」という声だけが聞こえてくる作品に向き合わなければならない。細木さんがなぜこのように仕掛けるか=創作するかというと、実は作品を理解して欲しくはないからじゃないかと思うわけです。正確には「理解じゃない!理解じゃない!美は作品は理解じゃない!」と伝えたいがための作品群ではないかとも思う訳です。平面作品では理解や思考を無限ループ化させて理解を拒絶、立体作品では思考という無駄な息を止めさせる。ではなんのために?
創作とか作品とかはつまるところ『私もしくは存在』の具現化でもあるわけで、創作は創作前に考えた結末に向かって進むうちに起きた疑問も解答も定着させていく行為だったりします。また途中における突発的なインスピレーションによって、破壊や変質も起こります。それはすべて『私』の進化と純化のためであったりします。本来作品レビューは簡単に表現するのが良いのかもしれません。しかし細木さんの作品たちは「なんのために?」と向き合った時間が濃く凝縮されているように感じて、「キレイだった」「良かった」「美しかった」という言葉に納めることが出来ないのです。なぜなら定着された『私』が極めて雄弁だからです。作品が語る「お話と語り口」がたっぷりと詰まっているのです。確かに雄弁な現代美術作品は沢山ありますけど、どこか見る側を導く小径を作者側が用意していたりするものです。でも細木さんの作品は、その入り口をあえて気付かぬくらい大きくしているようにも思えるのです。
子供が一日の出来事のありったけを話はじめながら、その一方で「これから森に行くけど来る?」と袖を引っ張る。そういう自分の姿をそのまま見せていこうという作品のようなのです。その世界では「理解する大人」が必要ではなく、むしろ「怪しい森であっても、危険な森であっても、付き添いながら細木さんの話にあいづちを打ちながら、共に進む好奇心おう盛な人物が必要なのです。そういう人物を捜す旅を定着させようという作品だからこそ「理解じゃない」と叫んでいるのかもしれません。
細木るみ子さんのHPはコチラです。
このレビューは5月末の展示会に関するレビューで、タイミングが遅かったのですが、偶然にも8月に細木さんの作品展示が銀座であります。2〜3作品を出品されるそうです。ぜひ実作品を見ていただければと思います。
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2015年8月3日(月)~8月8日(土)
11:00~19:00(最終日17:00まで)
ギャルリー志門
東京都中央区銀座6-13-7 新保ビル3F
http://g-simon.com/
GALERIE SIMON--ギャルリー志門
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※あくまでも私個人の感想に基づいたレビューです。細木さんご自身にインタビュー等で創作意図等の取材をした訳ではありませんので、多くの誤解や曲解を含んでいることをご承知ください。