眠り姫を起こすまで1〜細木るみ子作品レビュー |

美術家の細木るみ子氏の個展がもうすぐ開催されるので、以前のレビューでは書ききれなかった部分をもう少し。
レビューは本来は鑑賞ガイドであったり評価であったりすることが多いのですが、ここで書きたいのは『細木るみ子作品の迷い方ガイド』といったものです。以前のレビュー『赤ずきんは森の中』を先にお読みになっていただければ、こちらのレビューの成り立ちが分りやすいと思います。
私の知る限り細木氏の現在の作品は「客観素描」と呼ばれる作品群と、「音楽素描」と呼ばれるもの、また立体作品、墨を使った作品等がありますが、ここでは主に『客観素描』について書いていきます。実は私は細木氏の作品と出会ったばかりなのです。ですから背景というかそれまでの画業を知りません。それでもレビューを書くのは細木氏の作品が面白いからです。
その面白さがどこからくるかをまとめてみますと、次のようになります。
1、誰にも似ていない→スゴい!
2、何にも似ていない。何を描いているかのガイドが見えない。→スゴい!!
3、鑑賞者へのサービスがない。→スゴい!!!
4、エロティズムを拒否している→スゴい!!!!
5、物語性を拒否している。→スゴい!!!!!
いきなり上目線で作品を貶めている、とお思いでしょうが実際は反対です。賛辞です賞賛です。これほど面白くて楽しくて興味深い作品は久しぶりなのです。興奮でワクテカなのです。
絵画作品を前にした場合、素直に感じたまま受け入れるのが自然なのでしょうが、なにしろ現代美術は一筋縄ではいきません。なにしろ現代美術ばかりではなく近代美術にしろ、旧来の絵画表現の破壊の歴史の延長上にあって「えっこれ絵画なの?美しいのこれ?」という試行の繰り返しな訳ですから。評価が定まった名作名画の鑑賞を重ねても「作品を正しく読む」ことは至難の技なのです。逆に作家側にすれば画業のお披露目会は展示会や個展ではなく、常に事件を狙っている現場だということです。つまり事件と認定されなければ現代美術の革新性を証明出来ないからです。
事件にはふたつの道があります。ひとつはスキャンダラスな事件です。古くは一般女性の裸体画(聖書や神話の人物の裸体以外)が引き起こした美術史的事件や、キャンベルスープをそのままキャンバスに納めた事件がありました。いまでも多くの美術家や芸術家がこの道を歩いています。
もうひとつの道はスキャンダルから遠く離れた道なのです。絵画表現としては何も新しいものではなく、従来の表現技法の延長上にありながら、後年「あっそういえばあの作品が、作家が」と評価される道。静かなターニングポイント事件とでもいえばいいのでしょうか。細木氏はどうやらこちらの道を歩んでいるようなのです。
では細木氏の作品がどんなに面白いかを短く示していきましょう。
1、『誰にも似ていない』
細木作品の最初の入り口は「誰にも似ていない」です。鉛筆画や鉛筆を画材とした細密画などを描く作家は多いのですが、細木作品と同じような作品をあまり見たことがありません。似ているとすれば別冊アトリエなどの絵画の技法集の画に似ています。最初、氏の作品を見た時の得体の知れない違和感というオリジナリティは、実は「技法集」にヒントがあります。多くの美術家は技法集や学校での講義や実習を経て卒業し、自身の絵画技法を確立していく過程で「学ぶための技法」から卒業していきます。ところが細木氏はあえて放課後の美術教室に留まっているのです。木綿素材のカーテンが揺れて、ガタつくイーゼルに足を乗せて抑えならが、半分集中しつつ半分は妄想の霧の中でボンヤリする。でも手だけは動いていく。そんな時間を停めたくてあえて鉛筆を選んでいるような気がするのです。誰にも似ていないから細木作品を新鮮に感じたのではなく、むしろその初々しさによって私は奇妙な違和感に捕まってしまったのです。もちろん氏の技量が「学ぶ人」のレベルにあるということではありません。また後で書きますけどこの「初々しい奇妙感」が、あることに繋がっていくのです。
2、『何にも似ていない』
二つ目の入り口は「何にも似ていない」です。でもそれは「何も描いていない」という訳ではありません。「見たことのある何か」なのです。しかし画面上に何かであるというヒントも隠されていないのです。あの怪人二十面相ですら挑戦状とか言ってヒントの紙切れを残すのに。
私は意地悪にも『細木物件』という名前をつけて細木作品と類似しているだろうモノを写真に撮ることにしました。「ウフフフ見つけてあげよう。この明智にかかっては謎もトリックも通用しないのだよ二十面相!」という心境でしたが「さらばじゃ明智君!」と、細木二十面相にはまんまと逃げられてしまいました。それでは細木物件の数々をご覧ください。
ア/樹皮〜銀杏の木肌

細木作品『客観素描』シリーズは細かい線で描かれた陰影で構成されています。樹皮のアップにも似ていると感じて撮影してみましたが、似ているようで類似性は感じられません。脳内の「樹皮」イメージは近似していると思ったのですが。
イ/ヒバ系の植物の葉

線で構成されている細木作品なので、樹皮よりも線を感じる題材を狙ってみましたが、これも似ていません。細木作品は線で構成されていても、もっと細胞が集合した感じなのです。
ウ/道ばたの小さな草

それならばと集合体の密集感を狙ってみましたが、具体的過ぎました。

あえてカラーにしてみると細木作品と細木物件の大きな違いが分りました。類似の要素だけでは細木作品に至らないのです。写真では何かがせめぎあっている感じがしません。細木作品はもっと何かが画面上で闘っているのです。
エ/植え込みの植物

「細木物件」の中では「闘っている感」がかなり出ている方ですが、決定的ではありません。
オ/植物以外


最初に植物を想起して「似ているのじゃないか?」と探ってみたのは「細木作品」が有機的な題材と感じたためでした。しかし決定的な類似物件の撮影には至らなかったので、人工物にも挑みました。路面の小石はアトランダムに見えて極めて自然に収まっています。一方、窓ガラス越しのぼんやりとした明暗が近いと言えば近いのですがズバリではありませんでした。何かが似ているのですが。
それ以外に似ているものに雲があります。濃淡の諧調の細かさは細木作品とは似ていますが、これまた決定的ではありません。
それでは写真に絵画的表現をソフトで加えてみたらどうだろうか?


確かに線画化されると近いように思えますが、こうして比較写真を見てみますと元画の柔らかで怪しい諧調の方が細木作品に近いように思えます。
細木作品の主である細木氏に言わせると多分「自然界に似たモノがそのままあるなら作家が介在する意味がないじゃないか」とおっしゃると思いますが、それはそうなのです。ただ私が細木物件の探検を続けた一番の目的は、似たモノを探すことによって、細木氏の「作品の目的と目標」を分ろうとしたためです。そして細木氏の本意とは外れるかもしれませんが、氏の作品には『何かと何かがせめぎあっている』様子が定着されているのかもしれない。という大きな予測がついたのです。
振り返って銀杏の木肌の写真を見返すと、そこには銀杏を浸食する苔が。何かが何かを浸食し、または防御しながら絶妙なバランスで共生している。それはこれ以上どちらかが力を強めると死に至る。それほどの均衡。なるほど細木作品の白と黒のバランスはそういうことなのですね。
さて今回のまとめです。
細木作品には『初々しい奇妙感がある』
細木作品には『繁茂と浸食の闘いがある』
さて次回(明日の予定)は残り3つのポイントで楽しみましょう。(と勝手に楽しんでいますが)