眠り姫を起こすまで2〜細木るみ子作品レビュー |
細木るみ子氏は北海道在住の美術家で、今回の個展は帯広市で開催されます。
細木氏とはFBつながりの縁しかありません。しいて言えば盛岡つながりです。そう言う訳で、このレビューは依頼されたからでもありませんし、金銭的な授受もまったくありませんw あくまで私が勝手に書いているものです。個展と氏の作品の評価に対して足を引っ張らなければいいのですけど。

『 細木るみ子展 『 客観素描2015 』
2015年10月4日(日)~10月12日(月・祝) *10/6(火)休み
午前11時~午後8時 *最終日10/12(月)は午後5時まで
会場:フローモーション (帯広市西5条南13丁目11 0155-21-5506)
細木るみ子氏の作品レビューの続きです。前回は「誰にも似ていない」「何にも似ていない」という話でした。でもお気づきの方は多いと思いますが、絵画や美術作品はそもそも「誰かの作品に似ている」必要も「何かに似ている」必要もない訳です。また極端に言えば「美しい」必要もない訳です。でもこれは作家側の視点の話で、鑑賞者にとって手がかりが無いのは厄介な話なのです。
「ほーゴッホの筆致に似ておりますなぁ」とか「●●さんにとってのムンクの『叫び』かしら?」とかのガイドラインといいますか、評価や鑑賞のための指標があった方が理解(というより納得)しやすいのです。でもそういった鑑賞者の「お言葉」は作家にとっては、これまた厄介なことで。お褒めの言葉をいくら戴いても、お腹の中では「なにがデルヴォーに似てるじゃい!俺は俺だ!」とか叫んでいたりするわけです。このような対立が起きるのは、作家がいかにオリジナリティーの獲得を目指し完成させたと自負する作品であっても、鑑賞者にとって作品は鏡であるからです。その作品に何を感じたか=自分の何を投影させたか ということなのです。先ほどのゴッホやムンクを例にとって誉めるということは、過去の経験則や知識のフィルター越しに鏡を見ているということなのです。それはつまり「これは俺の心の投影を口にしているんじゃないよ。客観的に評価しているんだよ」という鑑賞者のいわば「保険」でもあるのです。
そんなこともあって作家は無意識に、または意図的に「間違って読み取られない」ようにガイド役の要素を作品に盛り込むことが多いのです。「これはゴッホじゃないからね」「セザンヌに似てるって言わないでね」「お願いだから誰かに例えないで」・・・。コチラは作家側の保険でもあり、また作家の技術でもある訳です。
ここで少し脱線です。作家は鑑賞者が作品を鏡として見ていることを利用して悪戯をすることも出来ます。
まずはポンとキャンバスに円というか球体だけを描いて展示したとしましょう。そしてタイトルに普段使わないような難しい言葉を選んでタイトルとします。

鑑賞者は戸惑います。
「うーむ、円か球体を描いたようだが、タイトルは『演奏〜深淵にて』とあるぞ。なるほどこれは球体ではなく穴なのだな。極めて現代的な穴、いや空虚かもしれない」

もう一枚の作品も円もしくは球体に見える作品でした。
「うーん今度も丸か。なになに?タイトルは『FINE』だとな。いや私はそうは思わないぞ、むしろこの作品から得るものは不快感とでもいうべきか。
ん?隣のご婦人は『美しいわ、この球体〜』と言っているぞ。おかしいな不快と感じるのは俺だけなのか?」
まあこんな作家や鑑賞者ばかりではないことは確かなのですが、作家は鑑賞者をコントロール出来たりするわけです。それだけの技量を持っているからこそ作家を名乗っているわけですから。
実は最初の丸は「まりも羊羹」の写真を画像処理したもので、次の丸は「あばれる君の頭部」を合成して円に加工したものです。まあこれは極端に安易な例ですが作家は自分の作品を「どのように見てもらいたいか」を実はコントロール出来るということだけを分って欲しいのです。
次の写真は猫を深夜撮影して、偶然出来た「細木物件」です。この偶然というか失敗写真を、そのことを隠して私が作品として発表してもいいわけです。ガイドもヒントも無いままにポンと投げ出したらアートと評価されるかもしれません。

こうした阿呆な例(技量も力も無いのにごまかすことが出来る)ではなく「美しい方向」でも「かわいい方向」でも「鮮烈な印象」でも作家は自分の作品を仕上げていく力を持っているのです。つまり絵画や作品は「こう読んで欲しい」「ここにこうしてあなたの心を映してね」という意図が作者の意識に関わらず作品に込められているものなのです。そして鑑賞者はそのガイドに沿って心地よく作品世界を訪問して心を(あるいは知識や情報を)写すことが出来る仕掛けになっているのです。
ところが細木作品には「こう読んで欲しい」というガイド要素が無い!もしくは意図的に省かれているのです。これは結構大胆な試み。まったく鑑賞者にサービスしていないのです。
ここまでとこれからが前回あげた5つの項目の3番目のお話です。
1、誰にも似ていない→スゴい!
2、何にも似ていない。何を描いているかのガイドが見えない。→スゴい!!
3、鑑賞者へのサービスがない。→スゴい!!!
4、エロティズムを拒否している→スゴい!!!!
5、物語性を拒否している。→スゴい!!!!!
鑑賞者にサービスが無い、もしくは意図的に隠されているならば、鑑賞者にとってはチャンスでもあるわけです。
細木氏は「お好きにどうぞ」と言っているのです。ここはぜひ個展を訪れて好きなことを言いましょう。
「なるほど大杉栄ですか。となるとこの谷底にも見える暗い部分は時代の閉塞感、いや大杉自身の抱えた闇。いや、ここは逆に伊藤野枝的存在とでもすべきか」
「いやーさすが細木さん。ルーテーズのバックドロップ、ゴッジのジャーマンスープレックスにも似て、見事に受け身の取れない絵ですね。さすがです」
「昔の女優が白黒映画で輝いていたように、細木作品は美しいわ。まるでバーグマンの横顔のよう」
いや待てよ。好き勝手に作品批評が出来るなら「それはサービスではないか」
そうなのです。細木作品はサービスが開放されているように見えながら、実は意地悪な仕掛けがあるのです。それは不可思議な『タートルネックの半袖ニット効果』とも呼ぶべきものなのです。
ここで前回の要約をもう一度お読みください。
細木作品には『初々しい奇妙感がある』
細木作品には『繁茂と浸食の闘いがある』
それを踏まえてこの写真。

一時フジテレビ女子アナ的な噴霧器(雰囲気をまき散らすの意ねw)の女性たちが着ていた半袖のニットです。この「暑いのか寒いのかはっきりしろ」感。「女子力あがるよね〜」「女の子が着ているとふわふわでかわいいよね」とかの肯定的意見もありますが、固定観念がさらに凝り固まった頭には「なんなの?お前」的な。
細木作品は素人目にもその技量が趣味の域の人のものではないことが分ります。その一方で美の二大対立のようなモノが画面にあって、不可思議な均衡を保っているのです。たとえば私がこのような絵に挑戦した場合、止め時が分らないまま描き続けるか、早々と妥協線を見いだして完成と称して筆をおいてしまうでしょう。そうなのです。細木二十面相は完全犯罪を企みながら遅々としてその犯罪を完成させようとはしていないのです。腕と知恵があるのに。
つまり細木作品に同居しているのは『成立と未遂』。これが大きな罠であり魅力でもあるのです。
そしてその『成立と未遂』という鏡は細木氏の『客観素描』の絵に描かれた線のように、細かいヒビが入った鏡です。鑑賞者である魔女が「鏡よ鏡。この世で一番美しいのはだあれ?」と問うても答えを映さない鏡なのです。
ええっ!何も教えてくれない、何も映してくれない絵画ってなんなの?
でも絵としては完成してるよね?
さて、半袖のタートルネックニットを纏った細木二十面相をどう追いつめていきましょうかね。
長くなったのでこの続きはまた明日。