眠り姫を起こすまで3〜細木るみ子作品レビュー |
今日が個展の初日。盛況をスタバの陰から見守っております。
冗談はさておき、いよいよレビューの最終回です。
細木作品を私は「誰にも似ていない」と書きました。また「何にも似ていない」とも書きました。それなのになぜ私は「細木物件」があるに違いないと思ったのでしょうか。他の誰もの作品に似ていないのに、他のあらゆる事象に当てはまるものがないのに、なぜ「近いものがあるはず、見たことがあるはず」と思ってしまったのでしょう。
また鑑賞者を自作の理解へ誘う腕がありながら、それを放棄しているかのよう細木作品でありながら、なぜ私は細木作品に「道みたいなものが見える」と勝手に思ってしまったのでしょう。
通底器で何かが繋がっているのでしょうか?では繋がっているものは何でしょう。
放課後の美術教室の匂い
鉛筆と紙という「自分の美術史」のスターターキット
指導の先生や講師の目の届かない場所での自由な作画
靄、亀裂、葉脈、雲の変化
記憶の底で繋がるものは多数あります。
もしかしてそれを細木作品は閉じ込めている?でもノスタルジーを感じさせる絵ではないし、多分それを意識して創作はしていないと思いますし。
では閉じ込められた何が通底器を通じて他人にしみ出してくるのでしょう。『細木物件』の撮影の時には私は意識的に『細木作品』に似た事象を探しています。しかし考えてみるとそこには「私の意図」が組み込まれてしまっていたのです。閉じ込められた細木要素を探るには、この意図を外す必要があると考えました。そこでちょっとカメラに工夫をして、偶然写真多発装置を作り、それを『細木物件自動収集装置』と名付けて二日と5時間ほど可動させてみました。その一枚目がこちらの写真です。

おっ・・・これはいけるかもしれない。以前の『細木物件』とは違う。描写された、いや撮影されたものが具象と感じられない分だけ細木エキスが強く感じられる。私はこれを『細木エキス侵入物件』と名付けました。



怪しい、怪しいではないですか。細木エキスはどこか私をはじめとする人類の知らぬ場所を通る細い管のようなものを通して、ジワジワと侵入し続けているのかも知れないのです。


そしてカラー。ああ、なるほどそうだったのか。「せめぎ合い」自体が象徴だったのか!象徴と象徴を対立させて構成しようとしていた訳ではなかったんだ!
しかし普通は象徴とされるものを比喩として提示されることが多いのですけれど、細木エキス=象徴を細木氏は何かに例えたり、仮託しないまま放り出そうとしているです。
「ああ細木二十面相のあの怪しくも淫美な企みは、紅すぎる夕刻の西の空に浮かぶ裂けた口型を描く雲のように、明智探偵を嘲笑いながら闇へと消えていくのでした」と普通は描くところを細木氏は、
「ああ細木二十面相のあの怪しくも淫」で止めているのです。ああなんて恐ろしい企みでしょう。
十勝の博学の大家である南○氏に「寸止め詐欺って言葉はありましたでしょうか」とお伺いしてみなくてはなりません。しかしそうすると我が家に大量の下仁田ネギが送られてくるに違いありませんし、それに対応する知識が私には不足しています。
そして『細木エキス侵入物件』の最期の一枚。

具体的な事象を避けるように形にならぬモノばかり写し出し続けてきた『細木物件自動収集装置』がようやくおぼろげながら像を結んだかのように見えるのです。これはファラオの足下。時空を越えて像を結ぶの図と私には見えるのです。この最期の一枚で私は確証を得ました。しかし・・・。
「なるほど、今度の事件はこのまま闇に葬るか、もしくは『細木作品は新しい象徴主義の地平線を開くものだ』とか『神秘主義に根ざしたニューオカルティズム・アートの誕生』とか評して無責任にお茶を濁した方が良さそうだよ、小林君」
「先生、何を言っているんですか。せっかく追跡の糸口を見つけたのに追わないでどうするのです。証拠の脱ぎ捨てた半袖タートルネックのニットもあるのに」
「小林君。少年には分らない事情というものがこの世にはあるのだよ」
「また大人の事情ですか!大人はすぐそう言ってごまかす。僕にだって原田芳雄のあごひげに溜まった汗にエロスを感じる女性がこの世にはいるということくらい知っています!」
「小林君、そういうことは毛が生えてから言いなさい。もし君の言う通り追跡を続行したら私は二十面相の背徳の扉をあけてしまうかもしれないのだよ。秘すれば花。開けてしまえばあの怪しき二十面相が凡百の民に変わるかもしれない。そうすれば私の中の二十面相への強烈な興味を失ってしまうことになるかもしれない」
「分ります。モチベーションの低下ですね」
「小林君、そういう言葉は就活を迎えてから使いなさい」
ここでもう一度あの5つの項目を並べてみます。
1、誰にも似ていない→スゴい!
2、何にも似ていない。何を描いているかのガイドが見えない。→スゴい!!
3、鑑賞者へのサービスがない。→スゴい!!!
4、エロティズムを拒否している→スゴい!!!!
5、物語性を拒否している。→スゴい!!!!!
最終回は4と5です。これは実際には同じことです。それでは細木氏が並々ならぬ関心を示しているらしい4に歩を進めましょう。
前回のレビューで私は作家は自身の作品をどう見せるべきかを自由にコントロール出来ると書きました。でも私が出会ったアーティストと呼ばれる人は2種類に別れます。自身の戦略を立てそれに沿って作品を生み出していくタイプと、あくまでも自身の衝動やインスピレーションのまま、自身ではなにも分らぬままに作品を生み出していくタイプです。後者は何を描くべきかも見定めきれなくても筆を走らせ、結果として「これが私の見たかった、生み出したかった作品の姿なのか」とするタイプです。前者ははじめから「こういう姿形の絵」をインスピレーションとして受け取るタイプと言っていいでしょう。そしてまたこの2つのタイプ=資質は一人の作家の中にも混在していると言ってもいいと思います。
細木氏は細木作品を衝動、もしくはインスピレーションを得て描き始めていると思われますが、意識的か無意識か分りませんが、その衝動やインスピレーションを隠そうとしているのです。いや露にしつつ隠蔽しているのです。
マトモなニュースサイトから2クリック3クリックであっという間にエロティックな写真のページに飛ぶ現代において、細木作品を鏡としてそこにエロティックな視線を投げかければ、細木作品はあっという間にそういう平面にも見えてしまいます。また創作衝動はフロイトやユングを持ち出すまでもなく性衝動に転換されやすいものです。では細木作品が持つ「エロティズムの拒否」はそういう視線を拒否しているかというと、決してそうではないのです。「エロティズムを拒否している」は正確には「エロティズムさえ拒否している」なのです。
身を露に、人前でヌードになっているのに「見ないで!」と叫んでいるのではないのです。叫んでいるのはこうです「ヌードやエロティズムという要素さえ付け加えないで!」
5としてあげた「物語性を拒否している」も同様なのです。「私の作品に変な物語を持ち込まないで!」と言っているのです。
最初の細木作品レビューから私は「細木作品には2つの相反するモノが共存している」と思っていましたし、それら対立要素を組み合わせて考察してきました。従来ならそれを「葛藤」と呼んで「まあ、人間誰にもでもあるよね」と済まされてきたものです。しかし私が細木作品に魅かれたのは決して旧来の葛藤や対峙が描かれていたからではありません。
「しまった!僕たちは始めから黒蜥蜴の罠にはめられていたんだ!」
「先生いつから敵が黒蜥蜴に!」
「見たまえ最初の置き手紙を『客観素描参上!』とある。これを僕たちは罠=トリックだと読んで逆に迷路に陥ってしまったのだ。客観素描を心象スケッチの反語だとして<客観>がミスリードで、それは<主観>を隠すためだと思ってしまったのが間違いだった。黒蜥蜴の心を読み解くことが細木作品の解明に近づく道だと思って回り道をしてしまったのだ!」
「レクター博士を気取るからですよ。それに失敗の時は一人称を使ってください。僕たちだなんて」
そうなのです。細木作品の画面上の対立概念は、溶け合わせてこそ完成と思っていた私が阿呆でした。細木氏は対立概念を溶け合わせて完成を見ようとは、始めから計画していないのです。具象と抽象、繁茂と浸食、露出と隠蔽、成立と未遂をそのまま投げることだけ画策して。
私はすぐさま抽象を写し出し、細木エキスを抽出する『細木物件自動収集装置』を破壊し、新たに構想32秒の後『細木エキス重複装置』を作りました。
ブレンドもしない、ミックスもしない。ただそのイメージやインスピレーションを重ね合わせる装置です。また具象は具象のままに。
実は私は『細木物件自動収集装置』の稼働中にある作家の名前が浮かびました。ジョージア・オキーフです。細木氏と共通項があると思った訳ではありません。ふと思い浮かんだのです。この啓示なのかインスピレーションか定かではありませんが、重ね合わせるひとつをオキーフ的な葉に決めました。

もうひとつは街中で見つけた「細木物件」です。しかし何かが何かに侵入している「細木物件」的ではあったのですが、陰影がコントラストが強過ぎたので取り上げなかった写真です。

自然と人工と強引に対立させてみました。そして装置にかけスイッチをON.!

これまで以上に「細木エキス」がにじみ出た「細木物件」になりました。細木作品に似ている訳でも比較するレベルでもありませんが、私が細木作品を初めて見た時に感じたものがソコにありました。
分離したまま、2つの要素が静かに収まっているのです。そして細木作品にもオキーフ作品にも似た凛としたエロティズムを感じたのです。
テーマが葛藤であるならば、またその葛藤を作家のサービスとして分りやすくガイドしていたなら、私は細木作品に惹かれることはなかったと思います。混合や混在、そして複合は別に目新しい表現方法でありません。ここでやっと『初々しい奇妙感』が何者かが分ってきました。細木氏は従来の葛藤の原因となる対立のせめぎ合いを楽しんでいるのです。その楽しみを終わらせる訳にはいかないのです。折り合いが付き、調和がとれ、均衡が破れ、均一化する闘いではなく、むしろスイングさせることに道を求めているかのようなのです。
それをそのまま見て欲しいのです。ほらこの現象がいま一番面白いのと誘っているのです。だからこその『客観素描』なのです。見せているのに隠すということは、推理もエロティックな視線もあなたの余計な物語で飾らないで!ほらこのAとBとが闘っているの。ファイトしてるの、スイングしてるのハモってるの。
「初々しい奇妙感」とは細木作品が放つ騒々しいまでの「はしゃぎ感」と、それとは真反対のような静かで静謐な画面との落差なのです。静かな画面からザワザワとかコソコソとかシーンといったオノマトペが聞こえてくるのが従来の絵画なら、細木作品から聞こえてくるのは「キャッキャ」というはしゃぎ声なのです。
眠り姫は夢を見て楽しんでいるかもしれないのです。魔法にかけられてさぞや不幸な眠りに落ちていると思ってはいけないのです。眠り姫は英訳ではSleeping Beauty。ほらingが入っています。つまり一見黙りこくって死体のようであっても進行形の肉体なのです。細木るみ子氏はどこかで知っているのです。「答えを見いだしたらつまらないじゃない」「むしろこのせめぎ合いスイングこそ眠り姫にふさわしい夢」だと。だから対立のリングに対して終了のゴングを鳴らさない絵画を発見したのだと思います。私のような凡百の頭を叩き割るための道具として。私が見ていたのは結果としての絵画ではなく、リングのような絵画だったのです。そしてリングに上がって楽しんでいたのです。眠れる美をただうっとりと眺めながら、起きたときこの姫はどんな声を出すのだろうと遊んでしまっていたのです。
そこでは細木氏が「何と何を闘わせているか」や「細木氏が身体の内側で何と闘っているのか」ということはどうでもよく、その「眠り続けている」という進行形の美と戯れ遊べば良かったのです。そこには私のように謎を感じる者もいれば、リラックスして身体を休める者がいて、またただただ美しいと見つめる人がいて当然なのです。なぜならルールは「何も持ち込んではいけない」ひとつなのですから。絵画とは「何も持ち込んではいけない対象」というのが本質なのかもしれません。その本質を辿ろうとしている細木作品は「ああだこうだ」を言う鑑賞者へのアイロニーなのかもしれません。
この「通りすがりの通行人のいいがかり」レビューは、あくまでも私個人の感想であり、一方的な見方であることをお断りしておきます。
長文をお付き合いしていただいた方々に感謝いたします。細木るみ子氏の個展が盛況であることを願っております。佐藤とうすけ