見にくいアヒルの子はA列車に飛び乗った。 |

残念なお知らせをしなければなりません。
細木るみ子氏の新しい作品/客観素描シリーズの拝見後の感想を、昭和のアイドル新・御三家の名を借りて、お伝えしなければならないのです。
嗚呼、作品には常に真摯に向き合わなければならない私であるのですが、力及ばず膝を落とし両手を地面についた体勢であるのです。
現代美術を語るのに昭和の匂い。私は私に負けたのでございます。語彙が足りない、いやそもそも頭が悪い。美容院に置かれた芸能誌のような論評で良いはずがない。現代美術ですぞ、先日の深川散歩で出会ったカフェに置かれたカルチャー誌のような洒落た言葉が踊るレヴューに出来なかったものか。
いまの体勢から少し腰を持ち上げれば土下座そのものである。カム・ドゲザー。

■ サイジョー刺激
京橋のギャラリーのドアを静かに、そして怖々あけました。怖々の理由は多数ありました。いちばん怖かったのは細木氏の新作が「旧作そのもの」であったらどうしようということでした。さて同じものをどう評価したならば万事丸く納まるだろうか?ということも考えてしまったのです。
そういったことの整理も付かぬままドアを開けたらすぐそこに細木作品5点がドド〜ンと展示されていたのです。壁面全てが細木作品でした。
じっくり見る前の印象は「あれ?ずいぶん柔らかい」そうなのです。以前の客観素描シリーズに比べ柔らかいのです。ギャラリーの光線具合では決してありません。また事前に見た写真での新作の印象とは180度違うのです。
描かれている要素が大変換している訳ではないのですが受ける印象がまったく違ったのです。
以前の客観素描を見た時に思ったのは「随分不思議な線を描く人だなぁ」と思ったのです。交差する線の部分に力が入っている。いや交差する部分に力が現れるように描いているのです。それが平面である部分でも。
画面がざわつき、以前のレヴューでは失礼かと思って書かなかったのですが、線が不機嫌なのです。波打つ平面、尖る平面、しかも面は鋭く巻き込まれたように紙の内側に沈下していく。それが画風であり、そして細木氏の表現だと思いました。感情が線となってすべてがあのブラックホールのような靄の谷に巻き込まれていく。そしてそれは去年の時点では最良の表現だと私も思ったのです。
しかし今回は見事に柔らかく、線は機嫌を直したかのようにゆったりとワルツを踊っているのです。それが新作群の最上の刺激だったことは言うまでもありません。全体がホワンと幸福の衣を纏っているのです。
■ ノグチ苦労
この大変換を目の当たりにしては、やはりその秘密を解かなければと思ったのです。目を近づけてじっと見たのです。幸い?ギャラリーの細木作品の部屋には私ひとりです。くまなく見たのです。例えばあたりが柔らかいといえば「力を抜いて描いた」「画材を変えた」と思い浮かべるかもしれませんが、作業密度も画材もなにも変わって見えないのです。ところが何かがそぎ落とされ何かに変換されているのです。コントラストが強く感じてエッジが立ち、力強い過去作品の方が好みのかたもいらっしゃるかもしれませんが、その表現よりも素晴らしい音楽が流れてくるのです。間近に観察するとエレメンツのひとつひとつが柔らかく外巻きに浮かんでいるのです。ナイフで斬りつけて裂いたキャンバスとは真逆のように、光も影も縁も靄も闇も、柔らかく静かに紙面に沈み込んでいるのです。柔らかな布団の上の要素たち。柔らかい寝床で要素がまどろみ、沈んでいくのか、浮かんでくるのかも判断つきかねる状態でバランスよく留まっているのです。ミルクボールに浮かぶシリアス。あっ間違ったシリアル。

※上の作品写真は細木氏撮影の写真です。写真自体を作品としていると思えますので、文章の印象とは違いますがリサイズのみでそのまま掲載します。
作家に何があったのでしょう。秋から冬にかけて細木氏は写真の連作を始めました。それを拝見していると、その写真連作は客観素描を補完する役目を果たしているのではなくて、客観素描の取り組みの中の「見る作業」「形の本質を探る作業」に特化したものであるかのように思えます。その分が客観素描の制作作業の負担を軽くしている?確かに軽くしているのかもしれませんが、空いた時間や力をより緻密な作業に当てているのでしょう。楽をしているように見えないのです。神経の配り方は旧作の何倍も感じられます。しかしそれなのに・・・
眼球の寝床、もしくは残像の寝床を作ることによって、なんだかとても柔らかい美を産み出しているのです。その作業量、構想量、構築量の苦労等ひとつも見せずに。
■ ゴー白味
ゴー=5作品が展示されていました。大きな2点と立体作品を挟んで小さな作品2点。大きな作品2点以外の作品もまた、以前とまったく同じでありませんでした。こちらも柔らかな光の作品でした。特に立体詩は表現は変わるものではありませんが、意味合いが変わっていました。役目が変わっていたということかもしれません。どういうことかと言うと「立体でなければ表現出来ない」「平面でなければ表現出来ない」とかを示そうというのではなく、平面だって3次元ですよと誘っています。毛糸のふわふわとした触感が紙に描かれた作品世界を照らしているのです。照明のようなものです。柔らかさを紙に染み込ませながら広がっているのです。
小さなふたつの作品は植物の蕗が描かれています。天狗文の言い伝えにおいては「ふ」は明暗の本質を意味し「き」は形が表す関係の形が流れ始めた、ということを指すそうなのです。つまり光の本質が形となって命を持つとも読めるのです。よく見るとこの2つの作品には影がありません。それなのに光をいっぱい感じるのです。先ほど写真構成が客観素描の作業を軽くしたかもしれないと描きましたが、それ以上に細木氏は写真を撮り続けることで光が見せる形の本質を蓄積していった可能性があります。それが今回一気に画面(作品)に溢れ出しているといったら誉め過ぎでしょうか。

※上の作品写真は細木氏撮影の写真です。写真自体を作品としていると思えますので、文章の印象とは違いますがリサイズのみでそのまま掲載します。
そしてまた大きな2作品に戻ってみましょう。全体は目を細めてピントを外せば、ポプラのようにも見えてきます。また植物のようなものにも見えてくるのです。葉脈、枝葉を具象的に描いたかのようにも見えながら、細胞のひとつひとつも描き込まれているのです。
私たちは普通、絵の具や紙などを道具として捉えます。しかし細木氏はそれらは全て素材だと公言しています。それを頭に入れて作品にぐっと近寄って見ると、確かに紙の凹凸や起伏、肌触りを殺さずに、そこに何かを浮かび上がらせているのです。神の意思と同じように紙の命ずるままにそれを浮かび上がらせていく。時には紙の叱責を受けながらかとも思ってしまうのです。ですから今回の作品は墨の粒子にまして、白の粒子が輝いているのです。そのバランス作業の量の多さに目眩がしそうです。とにかく目を近づけて見て欲しい作品なのです。そしてここでは書きませんが、画面の中にあるものが描かれているのです。それが「こう読んでね」という仕掛けではなくて、むしろ「どう読んでもいいですよ」という宣言をユーモアとして表しているかのようなのです。
■ A列車はどこに行く
さてここからは余談のような「この作家の未来」の話です。実は先日私は細木さんの芸術活動に対して「もっとうまくやれるのに」と書いてしまいました。なんだか日々の言葉に感じる格闘を痛々しく感じてしまったのかもしれません。作家はオリジナルを目指そうとします。そして唯一の美に到達しようとして頑張っていくのです。細木さんはすでにご存知のはずですが、そういった取り組みを知っている人にとって「上手くやる」は決して世間一般の「上手に渡る」「楽をする」という意味ではありません。むしろ「上手く。それが見えないから創作する」原動力だったりするのです。それを5枚のカードにしてみました。文章より伝わるかと思います。





この質問をエンドレスで回しながら作家=細木氏は創作しているのです。答えを普通に出せば質問さえ必要がなくなる「質問」なのです。私は私であるし、私の作品は私であることが当然だからです。ただし私を世界に置き換えた時から急に行き詰まるのです。そしてそれをなんとか突破しようとまた格闘を始めるのです。「私は世界になりたい」のではありません。「少なくとも私と私の作品は世界の真実のひとつになりたい」と願いながら挑み続けているのです。そんな細木氏が「楽をして、ごまかして、嘘をついて」作品を仕上げることはないのです。でも「上手くやれ」も探しているのは事実なのです。
私の先生の作品に『ロング・グッドバイ』というのがあります。
血が熱い鉄道ならば
走りぬけていく汽車はいつかは心臓を通るだろう
と始まります。この一連の中に「上手くやれ」を適切に表した言葉があるのです。いえ全体がそれを示唆しているのです。
先生は私たちに「もっと上手くやれる、もっと上手くやれる」と呪文のように説き続けました。ある人はそれを早々と見つけもしましたが、私はずっと解く事が出来ずにいました。でもある日ポンとそれが見えました。
そして細木作品に話を戻せば、新作は「上手くやった」のです。どこかでポンと見つけたのに違いない輝きがあったのです。昨日とは違っていたのです。細木氏はハッキリ世界を自分に引き寄せる道や扉が見えたのです。それが何かをはっきりと書く事は出来ません。なぜなら「上手くやったポンの音」こそ何をしても変質することのない作家のオリジナリティ=独自性だからです。先程の大きな作品の中の「ある描写=要素」は、ポンを見つけたサインをこっそり描いたものかもしれませんよ。
新作は旧作と同様にみえて実は違う作品です。どこが根本的に違うかというと作品を見るものに委ねているからです。独りで突破しようとしていたある部分を・・・あっいけない、細木氏の作家的秘密「ポン」を解説してしまうところだった。
ではヒントとして先生の同じ詩の中の一節を
さあ A列車で行こう
それがだめなら走って行こう
「見にくい、見えにくい」ものを探して苦悩してきたアヒルの子はある日ポンと気付いたのです。そのポンの切符を手にして列車に飛び乗ったのです。「質問の家」から家出をしたのです。細木氏の新作が輝いていたのは、用意周到に準備を重ねて、その準備作業の過酷さに耐えた少女が、A列車の車窓から脱出が万事上手くやった=「やったぁ!」という笑顔がとびきりの笑顔であったからなのです。
本レヴューは今月東京ギャラリー檜e・fで開催された「e・f展」における細木作品に対する私個人の感想を基にしたレヴューです。全ての方々の感想とは違うものであることをご承知ください。