細木るみ子作品レビュー/『発生光陰』と『光の手触り』その1 |

長いダラダラとした序文w
アート作品のレビューは、よく考えると野暮なことなのかもしれません。美人さんを「なぜ美人か?」と説明していくと、目鼻立ちのバランスとか色白だ、スタイルがいい、という話になりがちですが、でもその批評家さんが選んだ美人さんが「?」だったらどうなのよ、って話になります。「それはあんたの好みでしょう」で終わってしまいます。絵画とかも、その評価はその絵画を選んだ人の好みの基準に左右されるんじゃないの?という話です。
「好きだから誉めているんじゃないの?」ということですね。「私が好きだからみなさんにも好きになっていただきたい、興味を持っていただきたい」と思われるのは当然です。
「私はこういう絵は好きじゃないわ」とか「何を描いているのか分らない絵は好きになれない」とズバッと言われる方もいます。時々そういう人をうらやましいとも思いますが、そうなると「絵画って何よ?作家って何よ」ということに繋がっていきます。
「見てキレイだと感じた」
「元気をもらった」
「絵の世界で気持ちよく遊べました」
それも正しい評価です。他人を気持ち良くさせる。もしくは見る者の心を動かす。それも絵画の力でアートの力だったりします。
ところがアートの世界は多様です。嫌悪感を狙った作品もあったり、醜悪を越えようとソレを突き詰める作品や作家もいます。
そうなると「アートな絵って何?」とまた別の問題に繋がっていってしまいます。
実は私も絵を描くんですが、あくまでソレは絵であって「作品」でも「アート」でもありません。絵が好きだったから絵を描くのが好きになったというのではなく、絵を描くのが好きだから絵を見ているといった感じ。紙があって鉛筆や絵の具があればそれで良くて「作品」や「アート」を目指して絵を描く訳じゃありません。まあ「結果が作品でしょう!」と強く問われたら「ああ、そうですかね」といった程度です。つまりラクガキやイタズラガキで留まっていると言われてもいいや、という人間なので、昔から「ラクガキとアート作品の境界が気になって仕方がない」のです。どっから先がアートで、どこまでがアート未満なのか?っていうことですね。
単純な人間なので美術館やギャラリーで展示されている絵がアートであり作品だと思っています。そういう場所に行くとたくさんの「アート作品」を目にすることが出来ます。つまり「ここからアートよ、作品よ」と名乗っている絵とたくさん出会うことが出来るのですが、明らかに「境界越えてるだろう」という絵もあれば「越えたか越えないかの曖昧さを楽しんでね」という絵もあります。なにしろ元々絵が上手いのにさらに努力や勉強を重ねて上手いってもんじゃない領域に行っちゃた作家もいれば、本来は絵がめちゃめちゃ上手いのにソレを隠してプリミティブな線やカタチを描く作家さんもいますから、侮れません作家さんたちは。
ラクガキと作品との違いは圧倒的な「打ち込む時間」と「打ち込む作業」と言っていいかもしれません。つまり追求の度合いですね。となると生き方ってことにも通じます。ラクガキはある意味リラックスタイムですから、楽しめば満足すれば書き損じでも途中でも終了して構わないのに比べ、作品は手を抜けば分ってしまいますし、描きかけ(完成未満)を展示する訳にはいきません。その作品に関しては追求し終えなければなりません。大変だなぁとラクガキ人間は思います。
そんな人間が四捨五入で70歳になって「まあ作品の2、3枚でも残すかな」とバカなことを考えて、描いてみるものの、やっぱり境界が分らないのです。というより「何を追求して、何を追いつめていけばいいのか」すら分らないというw
好きな題材はありますが、好きな題材だけにラクガキも沢山したので、あっと言う間に描き上がります。あれ?ということで今度は描き方を細かくします。時間はかかりましたが見栄えは変わりませんw
うーん困ったなという時に、知り合いの作家さんからダイレクトメールが届きました。北海道の十勝在住の画家の細木るみ子さんからです。過去に何度かレビューさせていただいた方です。新作2点という案内でした。それに個展ではなくグループ展。多くの作家さんの作品と境界を目にする機会なので行ってきました。
会場は横浜市民ギャラリーという知っている場所でしたのでホイホイと。夕方近くになるとその地帯は誘惑が多いので午前中です。
さて長いダラダラとしたイントロが終わってここからがレビューです。
分ってたまるかの霧と靄
第23回 時のかたち展 2017
会期 5/9(火)~14(日)
会場 横浜市民ギャラリー 1階・2階展示室
時のかたち公式ホームページ http:www.ne.jp/asahi/tokino/katati/
細木さんの作品は『光の手触り』と『発生光陰』の2点。新作の2点は並べての展示ではなく別の場所に分かれていました。これはどの作家さんも同じで、大きな作品と「小品コーナー」的な展示に分かれているようでしたが、ちょっと残念。出来れば同じ作家さんは並べて見たいかな。なぜなら大きな作品と小さな作品との差を楽しみたいという理由からです。描く領域(面積)が制限された時に作家はどう対処したのだろう?ということに興味があるからです。もちろん手慣れた筆致で変化のない作家さんもいらっしゃいますが。グループ展で「全員同じ小品でね」という縛りがあると作家さんなら「ああ小さいと表現しきれないよなぁ」とか思うものなのでしょうか?ラクガキ派の私はラッキーと思ってしまいます。作業量が少ないからw(うーんまずそこが失格だな)。この「時のかたち展」全体について書き始めると長くなるので細木作品だけで失礼します。

細木さんの小さな方の作品は『発生光陰』というタイトルでした。小さいといってもこれまで拝見した作品と同じく密度の濃い作品でした。
感じ方なのですが以前よりその濃さが増したような。画面したからワーっと濃い霧が立ち上がってくるような画面です。私は細木作品は初めて見た時から「何かを隠している絵」だと読んできました。それが面白かったのです。何かを表出させるための表現ではなくて、何かを隠匿するための表現。明るい光で隠す、暗い影で隠す。そうやって隠すことを積み重ねた結果が作品=もう隠し終わった。あるいは表したいものは全部隠した。
こんな作家がかっていたでしょうか?風景に想いを託した作品もあれば、肖像画にモデルへの想いを託した作品もあるでしょう。そんな秘密めいたことは、そのエピソードが広く知られた瞬間からロマンとしてロマンスとして広がることになります。しかし「すべてを隠し終わった絵」はロマンに繋がるきっかけの扉も閉ざしてしまいます。ふーん変な作家。作品に他者からの共感を集めようとしないの?それはなぜ?この緻密な作業量を正しく評価されようとしていないのかな?
それとも一回り回った仕掛けなのかもしれないと思ったこともありました。なぜなら作品に質問をぶつけて答えを待つ、という回路こそ作品を見る醍醐味であったりするので、すべてを隠し、すべてを見せない表さない表現も、アートとの接触そしてその後の回路を繋げるものになってしまうからです。そう思ってもう一度細木るみ子という作家を捉えると「変な作家」ではなく「大胆な作家」なのかもしれません。
「分ってたまるかの霧」が「見せてたまるかの靄」が小さな画面の中に流れを作っています。風が吹いています。この広い展示室いっぱいに霧を靄を感じてごらん。という幻聴に惑わされると朝早い森の中で迷子になって、しまいには「あれ?私は何を見ようとしていたのだろう」状態になるかもしれません。私が見なければならなかったのは「隠された何か」なのです。タイトルの『発生光陰』はかなり意味深でありながら細木さんにしては直接的なタイトルです。「ほら、仕掛けをすこしだけ教えちゃうよ」と笑ってタイトルを付けたのかもしれません。
後半に続きます。