時のかたち展 細木るみ子『発生光陰』『光の手触り』レビュー2 |
ビジョンの積層

横浜市民ギャラリーで開催された『時のかたち展』に出展された細木るみ子さんの作品レビューの続きなのですが、実は細木さんとは最初の作品レビューを書いた時からやり取りをさせて戴いていて、当初「私が謎」だと思っていたことなどを丁寧に教えていただいていたりします。
ドコからどうやって描いていくのか~といった技術的なことから、ナニを描いているのか~といったテーマ的なことまでを、作家さんから教えていただく機会はあまりないので貴重な体験なのですが。
またご自身も最近ブログ/http://hotc04.blogspot.jp/search/label/Drawingでも精力的に自作解説を行なっていたりしますので興味のある方は読んでみられると、このレビューよりずっと深く理解されると思います。
でもどうしてもレビューを書いてみたくなるのは、細木さんの鉛筆による抽象画が極めて不思議な魅力を持った絵であるからです。鉛筆という画材は精密な具象を描くのに適した画材です。つまりリアルな表現に適しています。油絵なりアクリル絵画なりでも、いわゆるスーパーリアリズムは可能ですけど、初心者ではちょっと難しい。ですから絵を学ぶ過程の精密なスケッチといった課題は「大体は鉛筆」によって行なわれます。消しゴムで修正も出来ますしグラデーションの表現も容易です。ところが鉛筆による技法をたくさん学んだ後に、鉛筆をメインの画材として使われる作家は意外と少ないのです。主にスケッチや下絵に使われたり、着色された作品の画材のひとつとして使われたりします。
細木さんはこれまで鉛筆による作品に『客観素描』というタイトルをつけていらっしゃいました。素描・・・確かにそうなのですが、細木さんの作品は素描というには少しばかり「?」のつく作品たちなのです。抽象という範囲に括られる作品ではありますが、抽象と言い切るのにも「?」マークが付くのです。抽象画に「ナニを描いているんですか?」と問うのはそれこそ野暮なのですることはないのですが、細木作品は「ねえコレってナニ描いたんですか?」という質問をどうしてもしたくなる痕跡があちこちにあるのです。
「この蕗の葉に見える箇所があるんですが?」「この石器にみえるエッジは石器ですか?」そういう箇所がたくさんあって、それが靄や霧で繋がり存在が隠されているというか、埋め込められているからです。
うーん何かを描いてさらに埋めているんだよなぁ。それが私が細木作品に魅かれた最大の理由です。
ザワザワとした乱
細木るみ子さんの作品のもう一枚は『光の手触り』という作品です。この作品は明らかにこれまで私が見て来た細木さんの『客観素描』とは違っています。
「おっ新作で変化してきたのか!」という感じです。
まずこれまでの『客観素描』にはないザワザワとした動きが、声が、あるのです。
『客観素描』シリーズは極めて精密で静寂な世界を描いているように見えるので、私のようなへそ曲がりは興味を持って「その不思議さ」に食いつきますが、普通は先ほどの「絵の中の埋蔵・堆積物」を見逃してしまいがちです。それはなぜかといいますと画面全体に乱れがなく、極めてバランスがとれているからです。隅から隅まで「絵の中の埋蔵・堆積物」が露出しないように調整されているからでもあります。一枚の素描として見られるように配慮がされている。と言ってもいいかもしれません。
ところが『光の手触り』は文化財の発掘現場のように「ある深さまで土が取り除かれ埋蔵物が所々に顔を出している状態」のようなのです。制作手順的にいえば「あえて埋め戻していない」あるいは「まだすべてが埋め尽くされていない」状態に見えるのです。従来の『客観素描』シリーズが完成形だとしたら『光の手触り』は未完成?とも思えるのですが、これは深化&進化だと勝手に思ってしまうのです。
会場の横浜市民ギャラリーは横浜の野毛という場所にあるのですが、『光の手触り』はまるでその野毛の地に呼応したかのようで、山がありその高低差も複雑に入り組み、そしてそこに集う人たちも様々で、一番下の飲食街・繁華街的なざわめきと寺社や動物園、文化施設とのざわめきの差。そのようなものが『光の手触り』から感じられます。画面の中心部と周辺では「ざわめきの質」が違い、右の周辺と左の周辺の「ざわめきの声」も違うといった具合です。
それはあくまでも偶然なのですが、絵をはじめとするアート作品は「化学反応を起こす触媒」のようなもので、見る者が作者の意図を越えて勝手に「別のビジョン」を見てしまうものなのです。
細木さん自身の解説によると、客観素描は様々なビジョンが積み重なった状態にある絵画なのだそうです。それは試行錯誤の結果ではなく、ある意味、計算された過程で積み重なったものなのでしょう。画像ならぬ画層というべきものです。語るべきものを一面に拡げ描き込みながら重ねていく。それはラクガキ作家wからすれば花を描き、その上に景色を描き、またその上に肖像を描いていったら、全部が塗りつぶしになって、最後の絵だけが残ったになってしまうのですが、細木さんは鉛筆を選ぶ事で、その過程が透けて見えるように計算して「立体的な空間の中に作られた」作品に仕上げているのです。
鉛筆は細木さんにとって透明度の高い絵の具なのです。わざとそれを選んでいるのです。そして今回はその透明度をグッと高めてきたともいえるのです。それはまた『客観素描』シリーズを見るもの達が「あまりに画面を見ていない」のにしびれをきらした結果の反逆=作家自身の反撃のようでもあったりします。
それを直接的な表現=直球投げたな的と言ってしまったら。まるで退化のようにも聞こえますが、私はファンとして嬉しくもあるのです。退化では絶対ありません。
ちょっと次の作品を見てもらいましょう。

『客観素描』シリーズではあるのですが、より線がくっきりとしています。透明度が増して、細木作品の底が覗けたようなゾクゾク感があります。これは決して「底が割れた」話ではありません。「おっいよいよ隠していたものを見せる気になったのか」という予告編のようなものです。静かで知的な表情を見せていた作品が、見る者に対して反撃をし始める。それを破綻と見る方もいるかもしれません。でもこの「作家の乱」ほど期待が出来て面白いものはありません。下手過ぎて作品が乱れるのがラクガキ作家=私ならば、上手すぎる人は「乱」もまた美の追求だからです。こういう「乱」を細木作品に追いかけてみたいと思うのです。そのようなきっかけとなる作品でした。
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